旧下野煉瓦製造会社 煉瓦窯
風格漂う時代の生き証人
栃木県野木町と茨城県古河市の町境にとある乗馬クラブがあります。
そしてその敷地内に、乗馬とは関係なさそうな独特な建築物があるのをご存じでしょうか。
直径約30m、高さ数mのほぼ円形筒状の煉瓦造りに二本の階段、上には木造軸組の柱と屋根が載り、さらに中央から高さ25mの煙突が立てられています。
いったいこの異形な建築物の正体は‥。またなぜここに建っているのでしょうか。
「旧下野煉瓦製造会社煉瓦窯」。実はこの建築物、煉瓦を焼成する巨大な窯の史跡なのです。
現在からさかのぼること約百三十年前、大正二十三年(一八九〇)のこと、日本の建築物の近代化が進む時代です。
各官庁も例外ではなく近代化に対応、臨時建設局を設置するためその原材料である煉瓦の増産が必要となります。
そこで下野煉瓦製造会社(現シモレン)が野木町に煉瓦窯を二基(東・西窯)建造しました。
煉瓦に必要な原料は粘土と川砂などが主となります。さらに大量の煉瓦を運搬するため、交通の拠点に工場がなくてはなりません。
そこでこれら原料の多くを豊富に有する渡瀬遊水地が近隣に位置し、南北にのびる鉄道などの陸路と東西に広がる渡良瀬川や利根川の水路が交差するという絶好の交通拠点である野木町が選ばれたのは、まさに必然といっても過言ではないでしょう。
この煉瓦窯はホフマン式輪窯と言い、ドイツ人ホフマンが煉瓦の大量生産のため一八五六年に発明した方式の窯です。
十六角形の躯体壁面それぞれに窯の出入口があり、計十六の窯を別々に燃焼することが可能でした。
これを時間差で燃焼することで、窯から出た熱で隣室の窯を余熱・焼成後の冷却のために逃がした熱をさらに隣室の窯への熱に利用‥ などといった合理的な行程で、連続的な煉瓦の製造を実現したのです。
以来ここから絶え間なく鉄道や水運で東京など各地へ運ばれていきました。
日本煉瓦建築の代表ともいえる東京駅(一九一四年 設計‥辰野金吾)にも使用され、最盛期には月間で四十万本もの生産を誇ったそうです。
昭和四十六年、現役で八十年間もの活躍を続けていたこの煉瓦窯にも引退が訪れます。
時代の流れには逆らえず、煉瓦需要の減少によってその役目を終えました。
現在、東窯・西窯と二基あった煉瓦窯も一基(東窯)となってしまいました。
また周りの敷地も乗馬クラブとしてその姿を変えました。
ですが煉瓦窯は国の指定重要文化財として完全な姿を残しており、その存在感は今だに衰えを感じさせません。
生まれてから百年以上、骨太の名職人は引退後も同じ所に座り、乗馬クラブの、さらには野木町のシンボルとして今後も一帯を見守り続けていくでしょう。
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■旧下野煉瓦製造会社 煉瓦窯
■竣工:1890年
■所在地:栃木県下都賀郡野木町野渡3324-1
■ホームページ:http://www.town.nogi.lg.jp/page/page000843.html